1歩、2歩、あるくと近づく、あの光がある。
それは私を呼んでいるに違いない。私はこの世界の覇者だ。そんな幻想にもとらわれるような甘い誘惑がある。
「見るな」と「見て」が同居したその顔の正体を、私は探しに行くんだ。
女は一つのバスケットと、古びたマントを肩にかけ、森の彼方へと消えていった。
1人の女が、暗い誰もいない森の中の獣道を歩いていく。
服は煤けているが、上質な柔らかい絹の布でできている。長い栗色の長い髪を三つ編みにして、歩くたびにそれがポンポンと揺れる。
所作は美しく、1人で歩くと、その後から小さな花が咲き誇るような可憐な空気が取り残される。
手にはバスケットを持ち、中には赤ワインと先ほど作り終えたバケットが入っている。まだあたたかさが残り、香ばしさの香りが立ち込める。
森の中は不気味にフクロウがほうほうと鳴いている。女はそれが自分の声かと思うほど、不思議と近くに感じられる。
暗い道をランタンのひとつの明かりを頼りにまっすぐ歩いていく。ゴロゴロとした石が地面に転がっていながらも、足は軽快だ。これから親しい友人に呼ばれた晩餐会の予定があるからだ。1人ではない喜びと、仲間とともに分かち合える気持ちが、胸をやさしくつつき、ソワソワとしている。
「バケット、喜んでくれるといいな。おいしく焼けたから、ジャムと一緒にみんなで食べましょう。」
独り言をいいながら、女はその道を軽い足取りで進んでゆく。
歩を進めると、甘いもたつくような香りがする。ヤマユリの香りだ。懐かしいこの香り。
あの日、私の遠い親戚の女性がなくなった時にあたり一面に咲き誇っていた香りだ。
女は心にその風景を思い出していた。ーその人は私に優しかった。そして、私はその人を心から愛していた。もう二度と会えなくなるだなんて、私は思っても見なかった。
ここでこの香りと再会できることは、私のゆく際に何かかけがえのないものと出会うのではないかという、ありもしない予感に苛まれ、下腹部が声を上げて喜ぶ。
道は暗い。暗い道を1人で歩くことはなんと勇気のいることだろうか。
私の背中は誰かが守ってくれるわけではなく、ただ、古びたマントが冷たい風を通して、心もとなく揺らぐだけだった。
その大きなブナの木を右に曲がると、確か友人の家だ。そこまでくれば安心だ。
大きなブナの木はいつ見ても立派だ。美しいまっすぐな佇まいをしていて、見上げると、そこは点まで届きそうな力強い生命力に満ちあふれている。
ざわざわと風になびかれる緑の葉が子守歌のようで、優しく深呼吸をする。
女はふと思う。「私も、そこにいきたい。」と。
すると、ブナの木はひとつ、木の実を女の足元に落とした。ガサッ!と地面に落ちる音と衝撃に、女は肩をはねさせる。季節外れの木の実だ。それがほんの少し光を放っているようにも見える。
「ランタンの明かりが優しく反射しているのね。きれい。」
女は屈んで、その木の実を手に取る。
木の実を手にした瞬間に、今までの人生が走馬灯のように目の前から頭の後へ流れていくのを感じる。
生まれた時、母の優しい笑顔、シャンデリアの明かり、炎、混乱、叫び声、人の涙、骨と肉がぶつかる音、逃げろという父、暗い森の中を手を引かれてまっすぐ進む小さな足、朝焼けの丘、優しい女性の笑顔、土と薬の刺激週、オニユリの甘いにおい……。
心が重い。苦しい。今まで閉じ込めていた痛みと苦しみが、一気に湧き上がってくる。
ナイフのように突き刺さってくるその痛みを、ただ生身のこころのまま受け止めるしかない。
ドクドクと胸から銀色のギラギラとした血のような何かが流れてくるように感じる。女は必死でその見えない傷口をきつく握りしめた。
目を開けたままのはずなのに、目の裏に浮かぶ生々しい血と肉の焼ける匂い、それは私の実家が燃えてしまった様子だった。必死に逃げる中でも、助けてくれる人はあの人だけだった。あの人?だれ?大切な人なのに、思い出せない。胸が引き裂かれる痛みは続く。さらに重く、深く抉られる。苦しい、息もできない。声が出せない。誰か、助けて……。
女はバスケットをその場に落として、胸を力強く握りしめたまま、ゆっくりと地面にひざまずいて、丸まってしまった。
きのみがランタンに照らされてやさしいオレンジに光る。そして、その光は内側からの黄色の光に変わる。まるで黄金のきのみだ。
「みちゃったの?」
きのみから声がする。少年のような声だ。女はまだ痛みに顔をしかめたまま、脂汗を流して藁をも掴む思いで声の主をさがす顔を横にむける。
その声は軽快に続ける。
「見ちゃだめなんだよ。それは。しまっておかないと。痛いよ。あーあ。痛いね。かわいそうだね!はははっ!どうするの?これから。もっとみる?いいよ。僕はいつでもその準備はできてる。きみはそんなに悲劇のヒロインなんだね。ほら、もっと顔をしかめてみてよ。美しい顔が歪む顔はこんなにも甘美なんだね。ほら、もっと見て。」
少年は女のみつあみの髪をもちあげ、落とす。髪の毛が落ちた女の肩は何かを吸い込む光が放たれる。
女は痛みに耐えながら、身体に勝手に触れられた嫌悪感を抱き、少年をにらみつけながら、刃を食いしばって声を出す。
「あなたは……誰なの。」
少年はまるでおもちゃを見つけたように、目を輝かせながら見開き、ニンマリと笑った。
「きみを助けにきたよ。」
少年はそういうと、女の後にまわり、両手でマントをもってパタパタと仰いだ。
女は知らない少年が自分の苦しんでいる様子をみて喜んでいると感じ、不快感と恐怖があったが、それよりも痛い胸の奥を押さえ込むのに必死だった。
抵抗などできはしない。「助けに来た」などと言う言葉も信用できない。この暗い時間に森にいる少年はきっと物の怪の類に違いないと確信する。
そして、女は片手でマントを少年の手から奪い、立ち上がる。立つ瞬間に、胸の痛みは耐えられないくらいに全身に響き渡り、ひざに力がはいらない。
またその場にうずくまってしまった。
少年は言う。
「こっちを向いて。怖がらないで。僕は物の怪でも幽霊でもない。助けに来たっていったでしょ?」
女は信じられないと言わんばかりに少年と目を合わせる。その瞬間、ヤマユリの香りが周りに広がり、懐かしさがあふれてきた。
あときの強烈な大嫌いで大切な匂いが充満する。吐き気を催すほどの濃度で、思わず女はむせ返る。
「ほら、手を取って。」
少年は女に片手を差し出す。女は手を弾こうとした。しかし、それは叶わず、自然と彼の手を取っていた。
「よくできました。」
すると、つないだ手から光が放たれ、暗い森は明るい場所にかわった。真っ白な空間だ。そして、またゆっくりと明かりがおちつき、ランプの明かりが灯る。
そこは、広い屋敷の中だった。栗色の髪色の少女と、同じ髪色の男性と女性がいる。少女はうれしそうに駆け回っている。
「ピアノの周りは走ってはいけませんよ。」と女性は少女に声をかける。
「まあ、少しぐらいいいだろう。」と男性は笑いながら言う。
女は目に涙を浮かべ、「お父さま……お母さま……。」とつぶやく。そこは少女の生家だった。
女は少年に手を握られたまま、その映像を眺めていた。
手は温かくて、見ている世界の中にいても、心の痛みは戻ってくることがない。とても安心できる。
深い深い安らぎも感じながら、ときめきのような胸のざわめきもおこるが、女は気づかないふりをした。
目の前で3人が笑い合っている中で、炎の手が上がる。「旦那様!奥様!お嬢様!お逃げください!!」という別の男性の声。
そして、その声の主は打撲音と共に途切れた。少女は母によって目を隠され、スカートの後ろに匿われていた。少女は母に抱きつき、震え、怯えている。
女は同時に自分の身も震えていることに気づいた。自分の腕で自らの体を抱きしめる。胸がまたズキズキと痛む。少年は女の手をまた触れようとした。
そのとき、女は悲痛な声で叫んだ。
「やめて!!!!!!もう!!!やめて!!!!」
すると、また世界が真っ白になり、暗い森が姿を現した。
少年は言う。
「どう?みつけた?君の大切なもの。」
女は少年を突き飛ばした。少年はふわりと地面に転がり、女をニコリとみつめた。
「あなたは誰なの?なんでこんなことを……あなたがこれを見せたの?どうして!あなたは何者?!」
女は混乱して言葉を紡ごうとするが、うまく言い表せない感覚に苛まれて頭を抱えて唸る。
少年は戻ってきて、女の背中に手を当てる。
「いいんだよ。まだ痛いもんね。ゆっくりでいいよ。ぼくはここにいるから。またこの木の前で、ぼくを呼んで。」
そういって、背中に手のひらのぬくもりを残したまま、きのみがポウッと光り、姿を消してしまった。
女はしばらくそのままでいた。丸まったまま、地面に身を委ねた。
暗い森の道の向こうからランプがいくつか見える。
「ナターシャ!!」
「いたぞ!!」
「はやく!!倒れてる!!」
女を呼ぶ声がする。女の友人たちだ。
友人が女を抱き上げ、声をかける。
「大丈夫?どうして倒れていたの?」
「遅いから心配してみんなで探しに来たのよ。」
「震えているわ。オオカミにでもあったの?大丈夫?」
仲間か声をかけてくれるが、女はただ呆然としていた。
少年が残した手の温もりが忘れられずに、まだそこにたたずんでいたかった。
「私は……。」
そう仲間に応えようとするが、仲間は女をただ解放しようとする。
それすらも煩わしく思いながらも、受け止めるしかない。身体が動かないのだ。
そして、決意する。
私はまた、あの光にもどってくる、と。
白石 静夜(しらいし しずや)