白い暗い森の中で誰かが呼んでいる
「こっちだ。こっちだ。歩を止めるな。すすみつづけろ。」
足は思い。砂利道、獣道、ぬかるむ道。足を取られながらも進み続ける。
男は叫ぶ。
「どうして進み続けなければならないのか。俺は特に疲れ果てた。どうしてここで止まることを許されないのか。」
白い暗い森は答える
「すすめ。お前は道を知っている。すすめ。すすめ。ただ、ひたすら、まっすぐに。」
男は息を切らして、真っ白な美しいドロを脚と手のひらにつけながら、歩を進めるしかない。
ジャングルのように生い茂る木もすべてが不気味に白い。
何の生き物の声もしないが、森は生きて鼓動を打ち続け、呼吸をして、体温があるかのように、男を抱きしめ続ける。
胸には穴が空き、その穴には別の何かが詰まっている。それは男の命をつなぐために必要な何かだ。
「おれは、なんのためにここにいるのだ。ただ生きたかっただけだというのに。隣人のように、家族に恵まれ、日常という特別な日々を送りたかっただけなのに。知人のように、仕事に恵まれ、やりがいと喜びを仲間と分かち合いたかっただけなのに。」
「すすめ。進め。ススメ。すすめ。進め。ススメ。」
男は叫ぶ。そして、徐々に意気消沈してつづける。
「俺の言葉を無視するのか!これだけ俺はお前の望みのとおりに、この不気味な白いドロに塗られながら、道なき道を歩き続けているというのに。胸の奥のこの熱さは何だ。俺が家に置いてきた火の灯火が、ここに燃え移ったようだ。この手の冷たさは何だ。俺の夢のなかでの鼓動が、ここで再現されたかのようだ。進むとは、なんだ。なぜ進むんだ。進んでいるようで、戻っているようだ。どこまでゆけばいい?どこまでお前に従えばいい?ここは誰なんだ。誰なんだ。」
つぶやくように触れる葉に声をかけながら、白いドロに触れながら、自分の体を触り、己の確かさを確認しながら歩みを続ける。
「あと少しだ。進め。ススメ。すすめ。」
白い森の声が高くなる。
男はもうお前には惑わされない、と考えながらも、足が速くなるのを感じた。地面という地面が、脚に力をくれる。
とうとうどこかにたどりくつというのだ。男は胸が高鳴った。今までにない興奮だ。絶頂のような、またとない喜びが血液の中に飛び乗り、血管という血管を駆け巡った。背中が痺れる。光のような花火のような痛みのような狂喜だ。あと少しだ。もう少しなんだ。
目の前の触り慣れた皮膚を刺す白い葉を、心のままにかき分ける。
視界がひらけた。
眩しい。目が開かない。今まで暗闇に慣れていた目が、急に誰かに叩かれたように痛む。
光だ。暴力的な光が満ちていて、男をこれでもかというくらい痛めつける。
「なにが到着だ。ここは地獄だ。」
男はみなぎる力を無視して、手を振り回す。ただ虚しく空を切る。光の中で溺れているようだ。
ふと、優しい声がする。
「いたのね。」
優しい声の主は近寄るのを感じる。まだ目はひらけない。柔らかく温かい手が、男の汚れた頬に触れ、白いドロを落とす。
男はふと、目をあけた。そこには、光があった。美しい光だ。先ほどまで暴力的だと感じていた眩しさも、穏やかな朝焼けのように神々しさすらある。
「あ、あなたは……。」
男はつぶやいた。身体は動かない。ただ、光をみつめる。まばたきすらわすれ、その瞬間が永遠のように感じる。
その手で顔の泥をひとつひとつおとされると、落ちたものは光となって空中にとけてゆく。
どうにも魅力的なその光に心を奪われ、宇宙の果まで見通せるほどの力を持った目で見入ってしまう。
すると、その手の主が見えた。美しい女性だ。
ミロのヴィーナスか、サモトラケのニケか、バイアエのアフロディーテか、それ以上の何かのような神々しさと柔和な笑みと、これ以上ない親密さと、触れたら壊れてしまいそうな繊細で透明な線が、それを形作る。
「ああ、女神様。」
男は自然と声が漏れた。のどが勝手に呼吸とともに声を放った。男は驚いた。
自分がこんなにも不気味で汚く、禍々しく、ドロのように腐った穢らわしい声を持っていたのだ。恥ずかしくなって、その手で口をふさいだ。
女はその手をゆっくり外して、男の両手をつなぐ。子供の頃に遊んだせっせっせのよいよいよいのようだ。
男は何かが始まる期待をもつが、それすらも汚れていてもつべきものではないことを知る。だが、止まらない。どうしてもとまらないのだ。
男は、その目の前の女神のような光の女を抱きしめ、己のものにしたいと願う他ない。存在しない世界の中でずっと生きてきたように感じた。
「俺は……」
男がつぶやくと、女は見つめ返す。柔和に微笑むと、男の胸に光が満ちる。
泉のようにあふれてくる光が、白いドロや汚れを光に変えて落としていく。
歩いていたときの穴はもうない。白石静夜
白石 静夜(しらいし しずや)